いい加減気づくべきだ。
ネットに「死ね」諸々罵る言葉を書き込むすべての人。
そのような人こそネットを隠れ蓑にした通り魔的存在である気がしてならない。
気の知れた友人に悪ふざけて使うそれとはまるで違うことを理解できないのだろうか。環境、公然性、広義すべて違うんだよ。
不特定多数の人間が閲覧可能な公共性の高いネット上で書き込むことがどれほどの人にどれほどの影響を与えるのか、それは未知だ。躁状態の人も見れば鬱で情緒不安定な人も見るだろう。
あなたのその一言が引き金を引いてしまうかもしれない。
たとえ引き金を引かなくても活字化し擁護されている以上大なり小なり何らかの影響は与えているだろう。その程度で私は影響を受けないという人がいるかもしれないが、そのやり取り自体(私は影響を受けない、という選択そのもの)が受動側の反作用となって脳のどこかに刻まれる。
凶悪な事件や犯罪が起こったときにすぐ「死ねばいい」と書き込む人がいる。しかしその内容はほとんどが空疎なもので、感情論で走り書きの文面が多い。つまり書き込んだ主が「死」を強制する根拠というものが全く述べられていない。
死ねばいいと書き込む人間に対して同調派もいれば、その逆も当然いる。中には「あなたが死ねばいい」と反動する人もいる。そうした空疎な議論が延々と繰り広げられる。
死刑制度にある背景を知りもせず、感情論だけで死を強制していいのだろうか。
死というものをあまりに安直に考えていないか。ビルの屋上で足をかけている人に「死ね」と言えますか。
頭で思っていることや感情のみに支配された反動を無差別に書き込む自由が与えられていると勘違いしている輩が多すぎやしないか。
秋葉原通り魔事件を考えて思う。