この時は無駄ではなかったと、後から振り返ってそう思いたい。
今こそ、思いに馳せる時。
今こそ、考えを巡らせる時。
今こそ、止まっていた二年の針を進める時。
今こそ、人として成長する時。
この時は無駄ではなかったと、後から振り返ってそう思いたい。
今こそ、思いに馳せる時。
今こそ、考えを巡らせる時。
今こそ、止まっていた二年の針を進める時。
今こそ、人として成長する時。
09年に家庭用太陽発電補助が4年ぶりに復活するようです。
太陽電池推進派としては補助が再び適ったことは悦ばしいが、なぜいつも日本の政策というものは後手に回るのだろうか。
与野党間のつまらん対立に時間を割いて、永田町に国益を考えるものはいないのだろうか。
大国にあって大国にあらずと揶揄される所以に政治のミスリードが見え隠れする。
日本はそろそろ本当にやばい。
http://www.asahi.com/housing/news/TKY200808250306.html
当ブログでも頻りに登場するニセモノについて説明しておく必要がある。
先頃から人やモノを度々ニセモノと断じているが、決して一般的なニセモノの意として使っているわけではない。ここで言うそれは私が勝手に作り上げた表象であるため、その点を容赦頂きたい。
一般的にニセモノとは本物によく似せてこしらえたもの、であるが
私の考えるニセモノとはその前提に、本質が無いものを指す。
本質が無いというのは、ある範疇において為すべきその本質を持たずして、波及した副産物であるということだと私は考えている。
例えば、私が人をニセモノかどうか見ると、大凡の判定方法はこうだ。
・或る方面に秀でた才をもち、それを自覚している
・物事の本質あるいは自分を理解している
・物事に対する考え方が著しく流動的でない
実際にこれらを当てはめると大半はニセモノに分類される。
無論私自身もニセモノである。
よく言われていることだが、モノと範疇が溢れ反っている現代において極めて単純に人としてあり続けながら、あるモノを極め本質を見ることの難しさの表れであろう。
十人十色
いかなる人でさえ同一ではない
アイデンティティーや価値観は人それぞれ
言い方を変えれば、人はみな変わり者である
それを認め合うこと
それを共有すること
そんなことできるのか
価値観と価値観の相違が招くもの
即ちぶつかり合い
対話、抗争、排除、果ては戦争
この種の衝突において人は経験から何も学ばない
学べないといった方が正しいのかもしれない
人間的成長の真とはそこにある気がしてならない
人は感情的であり合理的である
合い違える二面性は矛盾している様にも思える
しかし、認めざるを得ない
それが現状
高城剛はニセモノだ
カネと力を携えながらその正体はニセモノ
断じて言える
ポエティックな言葉の羅列に確定的要素が見られない
かっこいいけどね
憧れの対象にニセモノは含まれない
http://blog.honeyee.com/ttakashiro/
アーセナル1-0ウエスト・ブロミッジ
ナスリのデビュー戦決勝ゴールでアーセナル勝利!!
大物の風格さえ漂わせる若干21歳は確実にステップアップしていくに違いない
フレブの穴は完全に塞がれた
化けろ!ナスリよ
政教分離原則とは、国家権力と宗教‐厳格に言えば「教会(宗派)」との分離を指す‐とは相互に分離されるべきであり、国家権力が宗教団体を援助・助長、又は圧迫してはならないとする原則をいう。政教分離原則をして、世俗主義ということもある。政教分離とは逆に、国家が特定の宗教を援助・助長するなどの密接な関係にある場合は政教一致と言う。各国において、国教制度、宗教と政治勢力との歴史的経緯から政教分離の程度には濃淡が見られる。
日本国憲法においては、第20条(信教の自由)においてこの原則が規定されている。自由権としての信教の自由を間接的に保障するための制度的保障として理解される。すなわち、国が、特定の宗教を優遇したり弾圧したりすることによって、「信教の自由」を侵す事を禁止しているものと理解される。よって、万人の信教の自由を保証しうるためにこの原則が行使されず優遇されているように見えることもある。(Wikipediaより)
元クラスメートのお姉さん(少し有名人)のブログを発見しました。
彼もたまに写り込んでいるよ。
http://blog.livedoor.jp/luna_menguante/
我思う、ゆえに我あり
いかにも西洋文化圏的な発想
自我を中心に据えたモノの考え方
善し悪しは別として、東洋的な思想を受け継ぐ我々にとっては新鮮にうつる
経験主義—人間は経験を通じてあらゆる概念や観念を獲得する
合理主義—人間は生理的に理性を与えられ、基本的な概念・観念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつ
(Wikipediaより)
今、僕の最大の関心事である”認識論”。
正誤を問うこと自体水掛け論に過ぎないのかもしれないが、一度徹底的に突き詰めてみたい。
これは想像だが、主観性や客観性というのは経験則内でしか波及しない概念なのだと思う。
さらに、経験則と合理性2つの立場を融合させて初めて、モノの本質をみることができるのだと思う。
もしそうだとすれば(というかかなり近いと思うが)、これは思ったより長い道のりになりそうだ。
殊に合理的概念は圧倒的に欠けている。
目的と情熱は切り離して考えることはできない
情熱は図らずも苦しみを伴う
目的のための死というとき
それは肉体的な意味合いだけに留まらない
目的を実現させるために仕事を辞めること
経済的な安定を失うこと
縁を断つこと
ライフスタイルの変革
これらはリスクであり、目的のための死ということができる
死は様々な形でやってくる
いずれにせよ、楽なものではない
変わることは難しい
だからといって、人間的成長を止めるわけにはいかない
人は 根底のところで精神的な存在なのだ
選択肢はひとつ
目的をもって生きること
自分の人生に重要な目的があることを知ること
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
偉大さというものは、その語感に反して、大きさよりも質の問題である。
とてもささやかな人生のなかにも、偉大さは存在しうる
「生活をより快適にするために発展した科学」
果たしてそうだろうか
本来自然を解明するために発展した科学が、営利目的によって生活に取り込まれただけではないのか
「バイオエネルギーはカーボンニュートラル(環境中の炭素循環量に対して中立)である」
果たしてそうだろうか
こんな命題がまかり通るならば、もっとマクロに見て、地球全体にある炭素量は増えも減りもしないのだから、カーボンニュートラルだということもできる
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えるものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。